2021年5月のさと、うま 都市計画家(アーバンプランナー) 徳川家康@谷口榮

私たちは2015~2016年にかけて、本拠地である「東京」をもっともっと知ろう、ということで、東京を知ろうツアーを行った。
いつも身近すぎて「知ったつもり」の場所を改めて調べ、訪れることで、新しい発見が沢山あったことをふと思い出す。

東京を知ろうツアー | サンブログ
https://search.sunfrt.co.jp/blog/tag/%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%82%92%e7%9f%a5%e3%82%8d%e3%81%86%e3%83%84%e3%82%a2%e3%83%bc/

コロナ禍で極端に行動範囲が狭まった今・・・そうだ!これがあった!本拠地の地歴を良く知ろう!
と思って手にしたのがインパクトあるタイトルの本書「都市計画家 徳川家康」。

著者は考古学者として活躍されている谷口榮氏。
いくつもの大学講師を務められたり、ぶらタモリにも出演されている。
出版されている書籍も江戸、下町、東京といったキーワードが多い方だ。

不動産業はお客様へご説明する際、その土地に何が建っていて、隣地には何があって、それがどうなったか、というその場所の地理と歴史、いわゆる「地歴」をよく調べる。
おかげで地図はマブダチ!な私たちであるが、扱う地歴は国会図書館に残るせいぜい江戸時代末期から現代と、計画のある少し先の未来までで、幅とすれば約150年間スパンの地歴は頻繁に取り扱う。
しかし当然、もっともっともっともっと以前から、その土地は存在していたわけであり、ただしかし何百年も前までは遡れない。
そもそもそんな昔の地図はない。

話は変わるが地図といえばこの人、伊能忠敬さん。
1745年に生まれた忠敬さんは、ある意味今日の不動産業界の根底を支えるプラットフォーマー。
蝦夷の地からはじめて17年かけて実測した日本地図が1800年代初頭に誕生。
ここから日本各地においてこの地図がベースとなって用いられるようになり、普及していった。
今の日本地図と大差のない正確な地図は、道を中心に発達する都市や街の興りがそのまま描かれており、江戸時代と現代をリンクさせやすい。

参考:官板実測日本地図|国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0600000000/0605020000/00

本書に戻る。
まずは冒頭にある現在の東京の地形についての一文を抜粋させていただく。
地図アプリや古地図サイトをご覧いただきながら読んで頂くと分かりやすい。

参考:東京古地図展 | 東京都 古地図 歴史 地歴 ツナガルマップ
https://www.tsunagaru-map.com/pf-tokyo/index.html

・・・東京の地形を大きく見れば、東部に低地帯、中央部に武蔵野台地、西部は関東山地に連なり、東から西に向かって標高が上がっていく。
更に東京都の東南部は東京湾に面し、その遠くの南方の洋上には伊豆諸島や小笠原諸島などの島嶼(とうしょ)地域が展開する。
東京都の東部の低地と台地の境は、およそJR京浜東北線のラインを目安とすればわかりやすい。
赤羽駅から上野駅、東京駅から大森駅の西方に武蔵野台地の凱旋が連なり、皇居から品川駅辺りまでの台地は山の手台地とも呼ばれ、一般的に「山の手」と称される地域である。
一方、JR京浜東北線の赤羽駅から上野駅を経て神田駅、さらに東京駅辺りまでのラインよりも東方に広がる低地帯を「東京低地」と呼んでいる。
東京低地には、徳川家康が江戸の入部した頃は、隅田川や太日川、利根川も本流が流れ込んでいた。
今でも東京低地には、隅田川、中川、江戸川、荒川、新中川が東京湾に注ぐ、全国的にも屈指の河川集中地帯である。
現在、巷間でよく使われる「東京下町」と呼ばれる地域は、この東京低地とほぼ同じ範囲であり、武蔵野台地の「山の手」に対して「川の手」とも呼ばれる。

こちらのご説明でおおよその東京の高低差や水道(みずみち)が把握できる。
そのイメージをもとに400年前にタイムスリップしよう。

江戸は、徳川家康入国以前は東国の敵からの守護の役目の場であったと言われているが、徳川家康が都市計画家にならざるを得なかった地理的な要素があったはず。
次はそのキーワードとなる「江戸前島」「日比谷入江」について知ろう。

江戸前島はこちらをご覧いただけるとわかりやすい。
参考:中央区観光協会特派員ブログ 春の中央区歴史散歩2014 ~知られざる中央区の原型 「江戸前島と歴史探訪」
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2014/03/2014.html
今の中央通り、昭和通り付近、新橋まで、という感覚でしょうか。

日比谷入江もこちらで図を見たほうが分かりやすい。
参考:東京湾のカタチ そもそも東京湾って?!東京湾大感謝祭
https://tokyobayfes.jp/online-exhibition/daiwa/
入江は現在の日比谷公園の真下20mほど深いところまであったとも記されている。

諸説あるが1590年に徳川家康が江戸に入国した頃の江戸の様子はこのような感じだったのだろうと著者は説く。
この現場を目の当たりにした徳川家康は、江戸に大規模な都市計画を行った。
現在の江戸城はいくつもの堀が埋め立てられてしまっており、残っている原型は3分の1といったところだろうか。
原型をとどめていない場所も、次のように残った地名をひろっていくと、江戸城の規模や地名の意味が現在の地図からもある程度把握できる。

現在大きな再開発が行われている東京駅八重洲口(東口)を出ると、江戸城の旧外堀が由来の外堀通りが南北に走る。
外堀通りは、現在は東京都道に指定されているが、当時は江戸城を約13キロにわたって囲んでいた、人工的な堀の跡に造られた道路である。
旧江戸城外堀(外堀通り)は現在の地名でいうと、八重洲を起点に銀座〜新橋〜虎ノ門〜赤坂〜四谷〜市ヶ谷〜飯田橋〜水道橋〜御茶ノ水〜内神田を経て、先日5月10日に修復&開通された常盤橋(日本銀行付近)、そして呉服橋というルート。

参考:常盤橋門跡-本来の姿を取り戻した常磐橋と実業家「渋沢栄一」-ひとりで東京歴史めぐり
https://taichi-tokyo.com/tokiwabashimon/

すでに地名に「橋」という漢字がいくつか出ているが、ほかにも鍛冶橋、数寄屋橋、幸橋、溜池山王(本当に溜池があった)、御茶ノ水、昌平橋など、御堀が形成されていた名残や地名が多いのが特徴だ。
外堀通りの内側を走る内堀通りも、江戸城内堀の跡であるので雉子橋、竹橋、一ツ橋と橋の地名が多い。
主に外敵からの攻撃を防ぐために作られた外堀には見張り役が常駐するための見附が三十六箇所に設けられ、内堀にはご存知の大手門、桜田門、半蔵門、といった門がいくつも形成されていた。

参考:外堀通り – 道路WEB
http://www.douroweb.jp/region13021/c002sotobori.html
参考:Wikipedia 江戸城三十六見附
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城三十六見附

長くなったのでまとめよう。
江戸城は徳川家が数代で造り上げた日本で一番大きな、宅地造成&区画整理&都市整備による産物であろう。
1600年前後の正確な地図は存在しないが、著者は地質、地層、発掘物などを駆使して本書に図を沢山用いて、分かりやすく見解を記している。
これを知らずして東京の不動産は語れない。
江戸形成の歴史は現代の土地にとても大きな影響を与えている。
この機会に学んでみてはいかがでしょう。

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これは先生に次の東京を知ろうツアーにお越しいただくしかない!

■参考サイト
伊能忠敬:隠居後に前人未到の全国測量を成し遂げ、精密な日本地図を作成 | nippon.com
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b07210/

タイトル :都市計画家(アーバンプランナー)徳川家康
著  者:谷口 榮
発  行:2021年4月6日
発行所 :エムディエヌコーポレーション