いつもありがとうございます。
11月12(木)~14日(金)に入社2~3年目の社員を中心に
広島・萩・北九州研修旅行に参画させて頂きました。
今回の研修旅行のテーマは、
「歴史を通じて人の性(さが)に触れ、確信を持って利他の世界を展開する」です。
幕末から現代に至る170年の正負の遺産に触れ、人が最終的に選択していく道は何かを肌で感じ、
今後確信を持って仕事をできるようになることが目的です。
それでは熱い3日間をご紹介させていただきます。
【1日目:広島】
6:00に羽田空港に集合しました。
遅刻しないよう羽田空港のファーストキャビンに宿泊した参画者も多数いました。
さあ、いよいよ出発です。
この旅行のために作成したしおりを読みこむ人、談笑する人、過ごし方は人それぞれ。
9:30 最初に訪れたのは呉。こちらは戦艦大和を製造したドッグ。
現役の潜水艦が停留しています。
日清戦争、日露戦争、太平洋戦争とここから数々の戦艦が出航していった場所。
呉港から江田島の旧海軍兵学校にはチャーターしたフェリーにて向かいました。
旧海軍兵学校到着。こちらは大講堂。
旧海軍兵学校は1876年から1945年にかけて大日本帝国海軍の士官の養成を目的とした教育機関で
山本五十六、南雲忠一ら多くの軍人を養成しました。
大講堂の中の様子。
大講堂は1917年に兵学校の生徒のための入校式、卒業式、精神教育の場として建築されました。
現在は海上自衛隊の幹部候補生、第1術科学校等の入学式、卒業式等に使われています。
天井の高さは14mあり、2,000名を収容できる広い空間ですが、
壁が和紙で覆われており、マイクを使用しなくても声が響き渡ります。
こちらは旧海軍兵学校生徒館「通称赤レンガ」。
日清戦争の前年の1893年に学生の生活、教育のために建築されました。
13:00 平和記念公園到着。
1945年8月6日より時が止まったままの原爆ドームと
そこから大きく復活した広島の街並みを前にしばし佇みます。
原爆死没者慰霊碑。中央の石室に国内外を問合わず亡くなった原爆被爆者の名簿が収められています。
15:30 宮島口到着。宮島に向かうためフェリーに乗り込みます。
宮島の海。波が全くない。こんなに穏やかな海を初めて見ました。
この場所に厳島神社が建てられたのはきっと必然なのですね。
厳島神社の大鳥居です。訪問時は干潮で大鳥居まで歩くことができました。
夜の帳が下り始め、通りも少しずつライトアップされてきました。
小腹も空いてきたところで、広島名物の焼き牡蠣を食べました。絶品、最高。
20:00 広島市中心部の夕食会場「酔心」に到着。
団長のプロパティマネジメント事業部本田部長より乾杯の挨拶。
1日目の振り返りとして、数名に感想を述べて頂きました。
ユービ原田課長は原爆ドーム、平和祈念資料館に感銘を受け、命の尊さについて語って下さいました。
一方、リプランニング事業部矢部社員は「なぜ日本人はアメリカ人を恨んでないのか」等、
日本人の歴史観について語って頂きました。
【2日目:萩】
7:30に広島を出発し、10:30に萩の街に降り立ちました。
まずは松下村塾、松陰神社等、吉田松陰先生ゆかりの地を訪問し、
現地のガイドさんにご案内頂きました。
松下村塾です。この小さな私塾にて松陰先生は
儒学、兵学、歴史、現在の世の中のことなどについて教えました。
教鞭をとった期間は1年余りでしたが、この地から久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など、
幕末の日本に危機感を覚え、日本人を守るために、江戸幕府を倒し、
明治時代に近代日本の礎を築いた志士達が誕生しました。
松陰神社。
1890年に始まった松陰先生を祭神とする神社で、
1907年に伊藤博文らの努力によって県社の社格を得ました。
午後からはグループに分かれての自由行動です。
こちらのグループは遊覧船に乗り、まずは萩の街を水辺から眺めました。
こちらは6班。着物を着て、昔と変わらない萩の城下町を散策しました。
みんなキマっていますね。
こちらは2班。萩反射炉。鉄製大砲の鋳造を行った金属溶解炉です。
明治日本の産業革命遺産として今年7月に世界遺産に登録されました。
長州ファイブとリプランニング事業部川崎係長。
温泉に入った後、19:00より夕食開始です。
乾杯の挨拶は建設部寺田係長。
語って頂くこと10分。
「いつに戻りたいかと聞かれたら、「今」と答えられる生き方をしよう」熱い挨拶でした。
2日目夜のスタートです。一日の振り返りや、仕事のこと、プライベートのことなど語り合いました。
談笑する(左から)麹町店一色社員、神田店林主任、リプランニング事業部鵜沼社員。
司会は2日目担当幹事の日本橋店小林社員。大いに盛り上げてくれました。
今宵も何名かの方に振り返りを行って頂きました。
こちらは人事総務部河本社員。
熱い2日目の夜を終えました。こちらはリプランニング事業部三柴社員。
【3日目:萩、北九州】
伊藤博文旧宅です。
9才の時に山口県光市より萩へ移り、伊藤家に入家。この家で暮らしました。
こちらは伊藤博文旧宅の隣にある家で、
博文が晩年に東京の大井町に建てた家を移築したものです。
東京にあったものの一部ですが、天井の高さや、部屋の数、建具の素材や照明等、
今ではなかなか作ることのできないとても贅沢な造りです。
松陰先生、長州藩の志士達の美しい生きざまに触れ、とても感じることの多かった萩の街でした。
萩の街を後に、次に向かったのは下関。
お昼ご飯は春帆楼にて頂きました。
1895年、日清戦争(1894-1895年)の講和会議が開かれ、下関条約が締結された場所です。
お食事は春帆楼の中でもなかなか予約の取れない「帝の間」にて取らせて頂きました。
1958年と1963年に昭和天皇皇后両陛下が泊まられた部屋を再現されています。
こちらは日清講和記念館。「春帆楼」の隣に立地し、
下関条約が締結された時に使用された調度品や資料などが展示されています。
日本側からは首相伊藤博文、外務大臣陸奥宗光、清からは李鴻章が出席しました。
再現された講和会議の部屋。
九州に上陸。官営八幡製鉄所・旧本事務所です。
幕末から明治にかけて欧州を訪れた伊藤博文らは文明の差を痛感。
このままでは日本は欧州列強に支配されると危機感を頂いた伊藤博文らは
西洋諸国に対抗できる国を作ろうと工業や資本主義の育成に努めました。
その代表格が今年7月に世界遺産に登録されたこの官営八幡製鉄所です。
東田第一高炉跡。
1901年、この地にて歴史的な火入れが行われ、我が国初の銑鋼一貫製鉄所の操業が開始されました。
当初はガス漏れや断水など相次ぐトラブルに見舞われながらも
1909年には日本の鋼材生産量の9割を担うまでに成長します。
写真は10代目の高炉です。
しかしながら、戦後日本は環境を顧みず経済至上主義に走り、空に、海に公害をもたらします。
1960年代の高度経済成長期には八幡製鉄所等が面する洞海湾は「死の海」と呼ばれるまでになりました。
しかし、現在はそれらの公害を克服した経験から、
国家戦略プロジェクトの一つとして「環境未来都市」に選定され、
低炭素街区、リサイクル技術等の開発拠点の形成、
海外へ公害をなくすための専門家を派遣させたりと環境先進都市へと再生を遂げようとしています。
その後は皿倉山に上り、北九州の街並みを眺める予定でしたが当日は山頂の見えない雨模様。
門司港は1889年に開港して以来、大正時代にかけて欧州航路や大連・上海への大陸航路など、
1ヶ月に200隻近い街区国客船が入港する国際貿易港として繁栄し、最盛期には年間600万人近い乗降客で賑わいました。
街に活気を取り戻そうと1988年から1995年にかけて整備を開始し、再生させた街です。
21:20 3日間の旅を終え、羽田空港に到着。
広島・萩・北九州と170年の歴史を巡らせていただき思うことは、
利己的な事象はいつか必ず滅び、悲劇(幕末の江戸幕府、太平洋戦争、公害等)を生み、
利他的な人間の心がそれを凌駕していく(幕末の志士たち、戦争の放棄、環境都市)ということです。
これは今後の当社での仕事をさせて頂く上でも重視すべきポイントであるように感じました。
松陰先生が「発動の機は周遊の益なり」と仰られている通り、
今回の旅で参画者の誰か一人でも心が発動するきっかけが作れたなら幹事としてとても嬉しく思います。
皆様、どうもありがとうございました。
広島・萩・北九州研修旅行幹事長 松尾将弘